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雲龍院 |
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| 泉涌寺別院 別格本山雲龍院 |
| 抹茶をいただきながら、庭をながめて静かなひと時を過ごすことができます。 |
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泉涌寺別院
別格本山 雲龍院の由緒
雲龍院は応安五年(1372)後光厳天皇の御建立にして、後、同所に後円融天皇、康応元年十月龍華院を御建立せられ(1389)御宸翰を下して如法写経を創めめしめらる。両帝しばしば行幸になり開山竹巌聖皐上人に聞法受戒せらる。晏駕に先立ちて剃髪染衣せられ、上人の引導を受けて背後の山に埋葬し奉ったのである。
開山上人は応永九年(1402)入寂せられ、応永十二年盂蘭盆の夜に早くも諸堂を消失したが二十年後には後小松天皇行幸になり、応永三十六年の頃には全安上人再建を見事に遂げている。次いで称光天皇の崩御、後に御父、後小松天皇崩御、共に当院聖汎上人全安上人の奉仕によりて先代と同所に埋葬申し上げている。間もなく応仁の兵乱となり、文明二年(1470)には全山焦土と化し、僅かに後光厳、後円融天皇の御尊像を残すのみとなった。併し文明十四年、後花園天皇の十三回の御国忌を雲龍院に於て奉修し得たことは復興の程を思わしめる。
明応八年(1499)後円融天皇御影を土佐光信に画がして勅讃を後土御門天皇にお願い申し上げ、之が今日重要文化財として保存されている。翌、明応九年九月二十八日後土御門天皇崩御遊ばされ、十一月八日泉涌寺に御葬送申し上げる、その御使用の御黒戸御殿は文亀二年二月二十八日後柏原天皇より下賜され如法修殿と称し写経の道場とせられたのである。戦国時代より桃山自他製を経て、徳川の初め中興の祖、如周宗師が雲龍、龍華両院を合併して雲龍院のみとす、この事が後水尾天皇の叡聞に達し造営費御下賜の恩命に浴し写経の道場を現在の位置に再建せられる。たまたま寛永十九年が本願、後円融天皇二百五十回の御忌に相当する以って後水尾天皇より写経会に要する仏具百余点御寄附を賜りて立派に再興を遂げた。その後、如周和尚は宮中に招かれて受戒講経をなされて病床につくまで法話を続けられている。
如周和尚以後徳川泰平の御代本願天皇御国忌の折々に御下賜金を賜うて諸堂の修理を行い、、この間鎮守堂、鐘楼等の建立がなされ東西に僧房を設けて諸方より各宗の門徒集まり研鑽を励み多くの俊英を輩出した。皇室との御縁故は天保十四年以降光格天皇の后妃を始め、仁孝天皇両皇女、孝明天皇の両皇女を後山に葬り奉ってより再び深くなり玄関、方丈、勅使門を賜り次いで歴代の御尊牌を奉安する霊明殿は慶応二年に始まり、孝明天皇、明治天皇、英照皇太后の思召しにより明治二年現存の様に再建された。 |
写経のおすすめ
後円融天皇御宸翰に曰く
「如法写経はその功徳甚深顕当の善根何事豈之にしかんや。朕三十有余歳に至る、さしたる悪罪なしと雖も亦殊善事を修せず。恐らく当来苦を受け万却に輪転せん。故に聖皐上人(雲龍院開山)に命じて龍華院(本堂)に於て闕かさず彼の写経の勤行を始め置く、朕の逆修のためなり。万世敢て退転せしむ勿れ。没後は必ず忌日を以て修中に当て菩提を祈るものなり。」と
一、方法 毎月二十七日(開山の御命日)を写経の日と定めて之を行う。
特に年一回、四月二十六・二十七日(後円融天皇御祥月命日)の二日間、一山大衆と共に行う。
一、写経奉納料 壱千円 |
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